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第一章 奴隷妻 1

「はぁ……お疲れ様」
 つい、背もたれに身を預けつつ言っていた。
「はい、お疲れ様です。今日も大変な患者さんでしたね」
「え?あ、うん」
 僕は慌てて振り返って、ピンク色の白衣を着ている水森真奈美に微笑みかけた。
「季節の変わり目で咳喘息を起こしやすい季節だからね」
「ですね」
 水森真奈美は、左右に小さなエクボを見せるとその顔のままベッドのシーツを剥がしにかかった。つい数分前に五歳の男の子が横になったベッドだ。
「さてとっ」
 最後の仕事への景気づけにとわざわざ声を出してから、ノートパソコンをパタンと閉めた。続けて、腰を上げる。院長室とされている三階の部屋に向かうために。
 仕切として使われているカーテンに指を伸ばすと、触れる直前にシャッと音と共に開いた。もう一人の看護師だ。
「あっ、じゃあ、あとはよろしく。院長のところに顔を出してくるよ。適当にあがってね」
「はい、お疲れ様でした」
 僕は常の通りに柔らかく微笑んで看護師とすれ違った。

 階段を昇り切り、部屋をノックする。
 息を詰めて待っていると、ドアが開いた。目の前にいるのは、柊木薫子だ。顎下で真っ直ぐに切りそろえられた髪型は、相変わらず冷たい美しさを際立たせている。深紅のリップは自信の象徴。紫のアイシャドウは……濃すぎやしないか?
「あら、副院長。こんばんは」
「こんばんは」   
 お邪魔でしたか? などとは口が裂けても言わない。
 代わりに出るのは、これだ。
「いらしていたんですか。お世話になっています」
「ええ、院長に相談をされたことがありまして」
「あ、そうですか。どうぞよろしくお願いします」
 と言ってから、義理の父親兼院長に向き直した。
「お先に失礼します」
「ああ、お疲れ様」
 義理の父親は、頭を下げる僕を一瞥するとテーブル上のパソコンに目を落とした。
「柊木君、続きを」
「はい、先生」
 返事をした薫子は、意味深な笑顔で小さく会釈をした。
 僕も「失礼します」と頭を下げて、ドアから半歩下がった。
 パタンとドアが閉まる。
 直後、見つめ合う二人を想像できたが、白衣の代わりにコートを着て病院の裏口を出る頃には二人のことなど忘れていた。
 
 すっかり暗くなるのが早くなった。それにしても、やけに冷える。見れば息も白かった。
 ダッフルコートを出して、タイヤを変える予約もいれないと。病院の年賀状は今年も義理母が決めるのか?医師会の新年会ぐらいには顔を出そうか。
 毎年の今時期のことを思い巡らせる。
「あら、先生。お帰りですか?」
 駐車場手前で初老の婦人が声をかけてきた。
「ああ、木下さん、こんばんは。冷えますから、気を付けて。また咳がぶり返しますよ」
「気を付けますよ。いえ、孫の迎えにね。嫁に頼まれたもので」
「そうですか。お気を付けて」
 僕は、にこやかに応えてすれ違った。
 背中に夫人の視線を感じる。幾度も頭を下げる気配も。僕は構わずに歩いた。温和で面倒見がよく、表情も愛らしいと噂されているのは知っている。患者からの人気も今では院長よりもあることを自負している。
 それでも、謙虚さを忘れない。隙を一切見せない、と言った方が正しいか。
 良く出来た医師、良く出来た義理の息子、そして、かつては良く出来た恋人、夫。
 必要であれば、いくらでも演じてやる。
 先刻の『お疲れ様』は、自分を労うために思いもよらず口を衝いて出た言葉だった。だが、水森真奈美は同志をいたわる言葉と解釈したに違いない。優秀な尊敬する上司からの労い。
 それでいい。それで。
 義理父への気遣い。見て見ぬふりへの無言の強要は反吐が出る。わがままな患者への対応も医者としての重責も。
 義理父は何かを目論んでいるらしいが、その金はどうする気だ。裏金の帳尻を合わせるのは、お前ではないだろう。柊木薫子のような経営コンサルタントとは名ばかりの女たちへの手当てもいくらになる。
 病院としての規模をどうせなら大きくしたい。最先端の機器を投じても、いまどき特別感がない検査施設では人が集まらないし、結果、大金が流れてこない。あんな小さな医院ではなく、豪華な個室も作って人間ドッグを大々的にやろう。手に入れるのは、地位と名声だ。
 科も新設したい。長寿を利益に還元するには限界がある。リハビリ施設やなにか……なにかないか……。
 そんな夫の苦悶の日々を労い、敬うのが妻の当然の務めだろうけど、そんな素振りを見せたのは初めだけ。わがままで身勝手な全く使えない女だ。
 わがままで……ああ、こちらの想いなど一切関知しないわがままな女。
 だから、今日もこの手でお仕置きをしてやろう。

 自宅の門扉を開ける頃には、忘れたはずの苛立ちが身を焦がすように覆っていた。
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