FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

最愛 第二章・夢みる頃を過ぎても 21

「なんで旬なの」
僕の横顔を見て呟いたっきり杏は何も言わなかった。
掴まれた手を払うこともしないでホームを歩き、改札を抜ける。
僕も言葉が出なかった。あれほど話をしたいと思っていたのにコート着る?なんて言葉も出てこない。
杏と手を繋いでいたい。それ以外のことを少しでも考えたら意思に関係なく容易に二人の手は解けてしまいそうな気がしていた。

本来ならこんなところで手を繋ぐのもまずい。
時間はまだ六時過ぎ。
しかも土曜。僕が務めている歯科医院は駅こそ違うが遠くない。
誰かに見られるかもしれない。
でも今の僕は杏の手を離したくはない。
心の中の幻想ではない。本物の杏が右横にいてくれる。
あの頃のように杏の手を握れる嬉しさを感じていたかった。
それは数分間過ごしたタクシーの中でも同じだった。
仕方なく手を離したのはお金を払うときだけ。

降りたのはマンション前。
杏の酔いはとっくに醒めている。
杏は手を繋ぎ直した僕を振り返って困ったような、まだ迷っているような顔を向けてから入口のドアを開けた。
エレベーターに乗って3のマークを押す。
小さな動く個室。
息をするのもはばかるような昂揚の中、振り解かれないようにと僕は杏の手を強く掴んでいた。
エレベーターを降りて数歩進む。
杏は鍵を差し込んで部屋のドアを開けた。
一歩踏み込んだ瞬間に今の杏が僕を包む。
もう感じることが二度とないと思っていた杏の空間。
その時になって杏は囁くような声を出した。
「旬」
途端に僕の想いは噴き出した。
本宮のこともあの時どうしての気持ちも凌ぐ想い。
僕は持っていた荷物を玄関の床に落として杏を抱きしめた。
「俺のせいにすればいい。俺のせいに」
杏の耳を見た直後にピアスを外した時と同じ色の心だった。
杏をそんな女にしたくなかったんだ。相手がいる男に手を出すような女に。
昔の男にしがみつくような女に。
過去に囚われているのは僕の方。
杏じゃない。

杏の頬が僕の頬に触れる。
背中にはドアの閉まる音がぶつかって足元には杏の小さなバッグが落ちた。
暗闇の中の数秒の静寂。
その果てに静かな泣き声のような声が聴こえてきた。
「旬……会いたかった」
杏の言葉が全身を熱く貫いた。
僕は杏を壁に押し付けて唇を塞いだ。
唇をこじ開けるように舌を挿し込む。
すぐに腕の中で脱力する杏を感じた。
僕は崩れ落ちそうになる杏を強く、強く抱きしめ直した。
関連記事
現在の閲覧者数:
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。